Kataru – 埼玉県で紡がれるストーリー

ファルカオサッカースクール久喜 大久保翼

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埼玉県久喜市でファルカオサッカースクールをはじめて、ようやく数か月がたった大久保翼さん。年代別のサッカー日本代表にも選ばれ、将来を有望視された学生時代。そして夢だったプロにあと一歩で届かずに味わった挫折感。

 

それらの経験を経て、指導者という天職に巡り合った大久保さんに、一生サッカーと一緒に生きていくことを決意するに至るまでの過程や、これからの夢などを伺いました。

サッカーとの出会い

僕がサッカーをはじめたのは6歳のときでした。小学校6年の時に、大宮アルディージャのセレクションを受けましたが、1次で落ちてしまい、久喜東中学校のサッカー部に進みました。そのときの悔しさがあったので、ジュニアユースに進んだ人より何倍も練習したのを覚えています。その後、なんとか埼玉県選抜に選ばれるようにまでなりましたが、地元久喜市には、小学校からのライバルがいて、そのライバルは、僕がセレクションで落ちた大宮アルディージャのジュニアユースに進み、日本代表にまで選ばれるようになっていたので、まったく満足はしていなかったですね。そいつには本当に負けたくないという気持ちが強かったんです。小学校の卒業文章かなんかに、書きましたもん。いつか絶対追い越してやると。笑

そして、中学卒業後は、スポーツ特待生という形でサッカーの名門校である、青森山田高校に進み、全国大会や年代別の日本代表、全日本高校選抜として海外遠征なども経験しました。3年生のときには、東北代表として挑んだ仙台カップ国際ユース大会で、U-18のブラジル代表、日本代表にも勝ちました!フランスに引き分けたため得失点差で優勝は逃しましたが、そのときの試合を、国士舘大学サッカー部の総監督であり、大学の理事長である大澤先生がわざわざ仙台まで観に来てくれて、国士舘大学に誘っていただきました。高校、そして大学でサッカーを通じてとても多くの仲間に出会うことができましたね。

青森山田高校時代の黒田監督には本当にお世話になりました。僕のステージを2つも3つも上げてくれた恩師です。今の僕がいるのは、間違いなく黒田監督が指導してくださったからだと思います。

挫折、そして指導者への道へ

サッカーをはじめた6歳の頃から、ずっとプロになることを目指していましたが、その夢が叶わないという現実に直面したのが大学4年生の時です。湘南ベルマーレやベガルタ仙台など、いくつかのJリーグクラブの練習や合宿に参加しましたが、同じポジションに有望な選手がいたり、ケガが重なったりしたこともあり、結局プロ入りは叶いませんでした。これは素直に自分自身に実力が足りなかったということだと思います。

僕はプロになることしか考えていなかったので、1年留年して大学のサッカー部に所属してもう一度アピールするか、海外に挑戦するか、いろいろな選択肢がよぎる中で、ずいぶん早いうちから僕に熱心に声をかけてくれていたクラブがありました。それがアミティエスポーツクラブです。Jリーガーになることしか頭になかったのでずっとお断りし続けていたのですが、プロ入りが叶わなくなってからも熱心に声をかけていただきました。すべてのセレクションに受からず、Jリーグ入りができないことが決まってからは、JFLなど、少しでも上のカテゴリーでプレーすることも考えましたが、指導者をして給料をいただきながら、関西1部リーグで選手としてプレーできるという環境面も決して悪くはないんじゃないかと思うようになり、大学卒業後は、アミティエスポーツクラブでお世話になることにしました。アミティエスポーツクラブのGMである松本さんが、僕に会いにわざわざ東京まで来てくれて、その熱意に動かされそこで決めました。そして次週には、兵庫県明石市へと向かっていました。

今思うと、このときの選択は、人生の大きな岐路だったように思います。スクール生とのふれあい、子供の成長や変化を間近で見ながら、自分自身も一緒に成長する感覚、保護者の方々からいただくお礼の言葉の数々。この仕事は僕が神様から与えられた天職なんだなと思えるくらい、自分が生きている意味を感じ、大きな喜びを得ることができる仕事だなと思うようになりました。
アミティエスポーツクラブの理事長である赤尾さんには、様々な面で本当に影響を受けました。この人みたいにカッコよくなりたいと、思いましたね。そして、2年間ほどアミティエSCでプレーし、3年目は同じ関西1部リーグのバンディオンセ加古川へ移籍し、仕事では以前から興味があった障害者施設で1年間支援員として働きました。

 

地元久喜市への恩返し

バンディオンセ加古川を退団することに決めて、次のチームはどうしようかなーと考えていたのですが、悩んだ末に選手としてのキャリアを終え、地元久喜市に戻ることを決意しました。3年間お世話になった兵庫のみんなと離れるのは本当に辛かったですが、自分の夢に向けて、10年振りに帰ってきました。

でも、そこで僕が目にしたものは、想像を絶する光景でした。本当に、最初は言葉が出ないくらいでしたね。そして、「あぁ。この地域のサッカー環境を本気で変えなければいけないな」と強く思いました。

「アジアンカフェチタチタ」でアルバイトを始め、そこで多くの素敵な出会いに恵まれて、自分自身本当に成長できたと思います。オーナーである小林寛樹さんを始め、たくさんの人が後押ししてくれたこともあり、自身でサッカースクールを立ち上げました。そしてしばらくは一人で活動していましたが、スポ―ツ・サッカーというものを全く違った角度から捉えている方と出会い、その方と一緒に新たにファルカオフットボールクラブを立ち上げました。

ファルカオフットボールクラブは、現在、久喜市、旧栗橋、旧鷲宮などを中心に活動していますが、近隣のクラブにはない新しい考えを取り入れたクラブです。まだ始まったばかりの小さな活動ですが、医療との提携を進めたり、管理栄養士による栄養指導体制をつくったり、将来指導者を目指す学生を育成するなど、近隣のクラブとは差別化を図った活動をしています。

それらの活動内容や理念に賛同いただいて、ウェアのサプライヤーも決定しました。今後、GRANDEというブランドのウェアを着用して指導できるのを楽しみにしています。

今後の目標

いまは、クラブハウスの準備や、法人化の準備、スクール展開の拡大や環境面の整備、ジュニアチーム設立へ向けた検討などに取り組んでいます。同時に、他のクラブとは違う特色を出していくために、極力、保護者負担を少なくしながら、持続可能なスポーツクラブのモデルを作り出そうとしているところです。正式に発表できるようになりましたら、改めてホームページやブログなどで、活動内容を報告してきたいと思っています。

スポーツクラブの組織の中で、いまの僕の役割は、指導面・教育面で、サッカーを通じたサービス提供のレベルを上げていくことです。スクール生や保護者の方に満足してもらい、サッカーの素晴らしさを感じていただき、もっと多くの地域の方々にファルカオサッカースクールの存在を知ってもらいたいです。そして、地域の子供たちにとっての最高の教育の場になれたらいいですね。

それから、よく勘違いされるのですが、サッカー未経験でもスクールに参加していただくことができますので、もし興味がありましたら、体験のお申込みお待ちしています。必ずサッカーを楽しんで笑顔で帰っていただけると思います!

また、僕自身1年振りに選手として現役復帰することも決まりました。現在は関東1部リーグのさいたまSCでプレーしています。4月からリーグ戦が始まるので、今はトレーニングに励んでいます。2016年は、選手と指導者の高いレベルでの両立を目指して日々努力しております。もし機会がありましたら、一度プレーしているところを観に来ていただけたらと思います。
ファルカオフットボールクラブの活動はまだまだ始まったばかりです。現在は、埼玉県久喜市、幸手市、加須市や茨城県古河市などから子供たちが集まってくれています。そういった地域の方々と想いを共有し、皆で一緒になって、地域のシンボルになり、埼玉県を代表するようなクラブをつくっていきたいと思います。応援、ご協力してくださっている方々の期待に応えるためにも、1日1日を大切に取り組んでいきたいと思います。

 

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